広尾の今と昔

江戸時代初期の頃の広尾地域は、江戸川の度重なる氾濫によって出来上がった「自然堤防」が現在のバス通り(新井~新井新田)にあっただけで、ひとたび江戸川が増水すれば、水浸しになっていたと思われます。
自然堤防沿いはこの辺りの地域の中でもっとも標高が高いところであった一方で、標高の低い土地であった広尾地域は、二丁目については沼や池があった低湿地帯、一丁目はどろっ田といわれた水田であったと言われています。

寛永6年(1929)年に江戸川の新川が開削されるまでは舟運の要衝の一つであった今井の渡しが現在の江戸川区今井バス停近くにあったため、江戸川区側への浸水は何としても防ぐ必要がありました。そのため、現在の広尾地先の堤防は「外堤」とし、広尾一、二丁目地域は遊水地として利用されていたと考えられます。

その後、広尾地域は現在の道路面の高さにするために約2メートル(川筋にあたるところでは3メートル近く)ほどの土盛りをしました。
特に広尾二丁目地域の工業地帯は、昔は大きな沼や池があったところだったため、相当な埋め立てをして現在に至っています。

昔の広尾地域 

  • 広尾に田圃を2枚持っていたが、私の家ではハスは作っていなかった。[新井・M様 昭和2年生]
  • 熊野神社脇に水路があって、子供の頃は泳いだりして遊んだものです。[新井・MK様 昭和17年生]
  • 江戸時代、広尾地域一帯は、洪水対策としての遊水地地帯であったが、その後幕府の許可を得て新井村・欠真間村の農民有志により私財が投じられ、田圃に改良されました。
    [H25.10.17市川ケーブルTV放映「いちかわの歴史の扉 鈴木和明氏]
  • 今井橋から江戸川右岸沿いに北上する道は、市川道とか行徳道とか呼ばれていた。私はかつてこの道を馬で走ったことがある。
    (中略)
    このあたりは葦の生い茂る湿地帯で鉄砲撃ちの鴨猟のための小屋があったり、空気が良いというのでサナトリュームがあったことを記憶しています。
    [2009.10.15発行「昭和30年・40年代の江戸川区」 村上昌氏] 
  • 昭和45年(1970)ごろ、坪12万円で広尾1-6-3の宅地を購入した。その土地の前には水路跡があった。
    昔を知る人の話では「その水路跡の先、広尾1-8-3地先付近には池があり、船だまりとして利用され、貝・海苔などの水産物を船で東京方面に運んでいた」。
    (中略)
    土地購入後3年目の昭和48年に家を建てたが、当時の広尾地域は未だ葦の茂った空地も点在、住宅は少なく見通しは良かった。今井橋通りに面した現サクマオート付近も池でした。[広尾・S様 昭和9年生]
  • 昔の広尾地域には確かに池や沼状のところが目についた。現在のセザール浦安マンション付近(緑道際・広尾1-16-5地先付近)も池だった。広尾ハイツ付近も池だったと記憶している。[広尾・F様 昭和9年生]

今の広尾地域

現在の広尾一丁目は、戸建てやマンションが建ち並ぶ住宅街である一方で、二丁目は広尾防災公園や老人ホーム、工場や事業所など数々の企業が隣接しています。

広尾防災公園

広尾地区周辺は、住民一人当たりの都市公園の面積が少ないうえに避難場所の面積も不足しているため、防災拠点・一時避難場所の機能を有する都市公園として、2001年4月にオープンしました。

公園の全体面積はサッカーグラウンド5面より広く、平常時は憩いの場として多くの近隣住民の方が訪れます。

一方、災害時には一時避難場所としての機能の他、初期救援や緊急輸送等の中継拠点としての機能を担う公園として整備されています。

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